「10年10万kmストーリー」アーカイブ(8話〜14話)
いまは無き『NAVI』誌で、1990年3月号から2010年2月号まで、二度にわたって長期連載していた「10年10万kmストーリー」は4冊の単行本にまとめられている。
しかし、まだ収められていないストーリーがたくさんあり、切り抜きを収めたスクラップブックをときどき引っ繰り返してはパラパラやっていると、その後のみなさんの様子が気になってくる。
変わらず元気に過ごしているのか?
まだ乗り続けているのか?
それとも、他のクルマに乗り換えてしまったのか?
目次(読みたい話をクリックしてください)
再掲載をお願いするメールを清野雄一郎さんに送ると、すぐに返信が来た。
それによると、雄一郎さんが乗っていたセフィーロセダンも、父親の満幸さんが乗られていたセフィーロワゴンも、それぞれ2年前と4年前に手放されてしまっていた。
「A33セダンは20万キロを目前にしてエンジンやトランスミッションからのオイル漏れ等のトラブル、故障でやむを得なく手放しました。WA32ワゴンは足回りのヤレに加え、計器類(メーターがすべて動かなくなりました!)、電装部品の故障が目立ち始め、さらに我が家の中で「家族6人で出かけられる車が欲しい!」との声が上がり、当時我が家で一番古WA32が入れ替え対象になりました。そのWA32と入れ替わったのが、C25セレナハイウェイスターです。父以外の家族全員で、半ば強引に車種を決めてしまったような感じでしたが…」
71歳になられた満幸さんはお元気で、セレナハイウェイスターに乗られているそうだ。
「私のA33セフィーロセダンと入れ替わったのが…A33セフィーロセダンです。(笑)またしてもA33、懲りずに買ってしまったのです。“程度のいいセフィーロってないかなあ?”とお世話になっているディーラーの方にお願いしたところ、程度のいい中古車(走行距離はすでに8万キロを超えていましたが…)を見つけていただき、今日に至っております。以前のセフィーロSツーリングは、5MTでスポイラー等がついた「一応」スポーツグレードだったのですが、現在は「20エクシモG」といういわゆる「旦那仕様(笑)」の、ごく普通のグレードです。
このグレードは4ATのみなので、私の心の中の「MT魂」をぐっとこらえつつ、毎日の通勤、ドライブに活躍してもらっています。A33セフィーロ、一言でいえば「本当によくできた車」であると感じています。確かに「華」はないです。最近の新型車と比べ、燃費もそんなにすぐれたものではありません。VDCなどといった最先端の安全装置も付いていません。
しかし、このA33に乗ると、なんとなく安心感があるのです。高速道路、山坂道を走っていても、未だ安心してハンドルを握ることが出来るのです。ドンガラの割によく「走る、曲がる、止まる」ですね。以前、日産自動車がCMコピーで使っていた「あっ、この瞬間が日産車だね。」を感じさせてくれる日産車の1台です。
熱烈な日産車ファンである雄一郎さんは、先日、日産自動車主催の「未体験試乗会」に応募した。会場は横須賀の日産自動車追浜工場にある「GRANDRIVE」。
「私はぜひ一度行ってみたいと思っていましたので、抽選に当たり、ひとり盛り上がっていました。家族は半ば強引に連れていった次第です…」
テストコースで最新の日産車に試乗するという目的と併せて、雄一郎さんにはもう一つ大事な目的があった。
「それは愛車A33セフィーロの“里帰り”です。代々セフィーロは初代の一部グレードを除き、最終型まで追浜工場で生産されていたそうです。追浜工場の駐車場に止めたA33に「久しぶりに帰ってきたけど、どうだ?」と言ってやりたくなりました。会場にいらっしゃった日産関係者の方々と、“最新の日産車”と“里帰りした日産車”の話で盛り上がらせてもらいました。最新の日産GT-R、フーガHV、ノート等などに試乗し「やっぱ、新しい車っていいなあ…GT-R、凄いなあ…フーガHVも速いなあ…」と興奮冷めやらぬ中、帰路、セフィーロのハンドルを握りながら「取りあえず、これでいいかな、まだ…買えないし(笑)」と思う自分がいました」
雄一郎さんのセフィーロは車検を通し、現在走行距離は約14万5千キロ。動かなくなるまで乗るつもりだ。
8話
“技術の日産”に期待している
清野雄一郎さんと日産セフィーロSツーリング(2001年型)
6年 14万7000km
清野満幸さんとセフィーロワゴン25クルージング(1998年型)
9年 13万km
同じクルマをそれぞれ一台づつ、どちらも10万キロ以上乗り続けている親子がいる。
静岡県在住の学習塾講師、清野雄一郎さん(33歳)がセフィーロのセダンに、父親の満幸さん(65歳)はワゴンに乗っている。
どちらも、10万キロ以上だ。
近くだが、それぞれ別の場所に家庭を持ち、クルマを融通し合っているわけではない。こういう親子は、かなり珍しいのではないだろうか。
雄一郎さんにとって、セフィーロは自身で2台目のクルマ。
最初は、中古のブルーバード。11万キロ乗ったところで、オートマチックトランスミッションが1速から3速にギアを飛ばして変速してしまうトラブルが発生し、買い換えを決めた。
「トランスミッションに載せ換えることも考えましたが、おカネが掛かるので止めました」
候補に挙がったクルマは、セフィーロの他、ブルーバード、トヨタ・クレスタ、フォルクスワーゲン・パサート。
どれも、地味な4ドアセダン。20代の若者が、なぜ。
「当時は独身で、スキーに夢中になっていたんです。仲間と一緒に、シーズン中に5、6回は八方尾根や猪苗代などに通っていたから、4ドアは重要な条件でした」
ならば、SUVの方がより好適なのでは?
「SUVは、スキーに行かない時に乗るには大き過ぎるんですよ。日産パトロールやテラノは大き過ぎて、値段も高かった。エクストレイルのような手軽なSUVが当時あったら、考えていたでしょうね」
4ドアセダンだけでなく、その上、5MTという条件も重ねられていた。
「マニュアルは自分で運転している感じがして、楽しい。
オートマは、勝手に動いちゃう感じがして、ダメなんです」
スカイライン・セダンに5MTが設定されていたが、当時のディーラーでは扱いがなく、候補から外れた。
クレスタには4輪駆動版が設定されており、扱っているトヨタ・ディーラーには知人も在籍しており、ちょっと心を動かされた。
「でも、やっぱり“技術の日産”のクルマに乗りたくて。
子供の頃から、何でも頑丈にできていると聞かされてきましたし、日本初や世界初を謳った技術や装備に驚かされたり、笑わされたりしてきましたから。ハハハハッ」
セフィーロは輸出台数が多いだけあって、5人分のヘッドレストや3点式シートベルト、リアフォグライトなどが標準装着されており、安全面での装備が充実していたことが決め手となった。
リアシートの背もたれが分割可倒式であることも、有利に働いた。これならば、ルーフキャリアを取り付けなくともスキー板を積むことができるからだ。実際に経験したことがある人ならばよくわかると思うが、ルーフキャリアなしでスキーを積めると、スゴく得した気持ちになる。
雄一郎さんはスキー行きに万全を期して、寒冷地仕様を注文した。数万円の追加料金で、大容量のバッテリーとヒーター、ヒーテッド・フロントグラス&ミラーが装備される。LSDも追加注文した。
「マニュアルなので、絶対にキャンセルしないで下さいよ」
マニュアルミッションのセフィーロを注文する人などほとんどいなかったので、静岡日産のセールスマンは念を押しながら、雄一郎さんに契約書を差し出した。総額約240万円。ローンを組んだ。
結婚し、ふたりの子供に恵まれた。通勤と休日に使うため、セフィーロには毎日乗っている。両親と一緒に6名で出掛ける時は、奥さんのマーチが出動する。セフィーロが2台揃うことは、ほとんどない。
「歳を取って、眼が悪くなってきたから、運転が面倒臭くなることが増えました。このクルマは運転しやすいのと、荷物が積みやすいのは助かるのですが、最近、ちょっと大きさを持て余すように なりました」
ワゴンのトランクには、ポリタンクが何個か積んである。満幸さんは、富士山の麓へ湧き水を汲みに行く。
「飲んだだけでは水道水との違いはわかりにくいですけど、湧き水でいれたお茶やコーヒーは美味しいんですよ」
2台のセフィーロは、まったくのトラブルフリーだという。何度もふたりに記憶を確めてもらったが、予期せぬトラブルは発生していない。消耗部品を法定点検で交換する程度で済んでいる。
「期待していた通り、しっかりと作られていますよ。頑丈に作られていた頃の日産車です。最近の日産車は、その辺りがわかりません。ティアナなんて、ペナペナでしたから。その上、トップモデル以外のATなんて、いまどき4速ですよ。信じられません」
雄一郎さんは、自分のセフィーロが走行10万キロを越えた時に、ショックアブソーバーを交換した。
「ガラッと変わりました。カーブの曲がり方まで違いましたから」
異音が出始めたセルモーターやエンジンマウントなども交換し、コンディションを回復した。
「節約のために、カーナビやETCなどは自分で取り付けました」
そのために、新型車解説書やサービス技術資料CDなどをヤフーオークションで落札した。車体修復要領書などと併せて、4000円だった。
「子供が小さくて、おカネもないから、簡単に乗り換えられません。ハハハハハハッ。でも、それ以前に、とても気に入っているし、壊れませんからね」
仕方なく乗り続けているのではなく、結果的に、かつて憧れた日産車に乗り続けていることに雄一郎さんは満足している。
一方の満幸さんはといえば、シートがヘタり、ショックアブソーバーの抜け掛かった自分のセフィーロの次を考え始めているようだ。
「眼が悪くなると、ゴルフのパットが入らなくなり、車庫入れが下手になるんです。だから、そろそろ小さなクルマにしたい。ウチはバァバとふたりだから、ミニにでもするかな。この近くにディーラーがあるんですよ」
ミニのように、大人の使用に耐えられる上質な小型車が日本車には少ない。
「ブルーバード・シルフィって、本来のブルーバードとは何の関係もないのに“ブルーバード”を名乗るのは筋が通っていない」
510ブルーバードから日産車を6台乗り継いだ満幸さんよりも、雄一郎さんの方が日産車に思い入れが強くなっていて面白い。
「“技術の日産”なのだから、ハイブリッドもトヨタから技術を購入するのではなくて、独自開発したものを展開して欲しい」
ファンとはありがたいもので、ハイブリッドが難しいのならば、画期的なディーゼルを雄一郎さんは日産に期待している。次世代のパワーユニットと上質な小型車の開発は、日産だけでなくすべての日本の自動車メーカーの課題だ。
『NAVI』誌2007年5月号より転載
●日産セフィーロとは?
1988年に登場した、当時のスカイラインとローレルの兄弟車。したがって、後輪駆動を採用した4ドアセダン。井上陽水が助手席から「みなさん、お元気ですか~」と呼びかけるテレビCFがいろいろと話題になった。1994年に登場した2代目は、マキシマを統合した結果、一転して前輪駆動に変身。欧米やアジアへ広く輸出された日産の世界戦略車となる。2003年に国内向け生産は終了し、ティアナが後を引き継いだ。メカニズムも、キャラクターもコロコロと変わる、日産らしいクルマだった。雄一郎さんのSツーリングが2リッターV6のVQ20DEエンジンを搭載しているのに対して、満幸さんの25クルージングは2.5リッター版のVQ25DEを積んでいる。
9話
200足と1台
大瀧安宏さんとアウトビアンキA112アバルト(1983年型)
25年 7万km
次に来たメールには、以下のように記してあった。
「先日、クルマ屋さんの勧め(車齢)もありタイヤサイズをオリジナル(135/80/13)に替えました。 車を購入してから3~4年位はオリジナル(135/82/13)で乗っていましたがその後165/65/13を2回ほど履き、その後はずーっと155/70/13で過ごしておりました。 今回オリジナルに戻し、たかが2㎝、されど2㎝、やはり細い!!
フロントはともかくリアがかなり細く見えます(まあ慣れるでしょうが)。
取材して頂いたかなり前より、特に高速走行後の渋滞等でパーコレーションが顕著だったのですが、その頃はそれをやり過ごし、空ぶかしを加えていれば元に戻っていたのですが、ここ数年、ほんの少しエンジンが熱くなっただけでパーコレーションが酷く出て、それはもうロデオ状態になってました。
特に今年になってからはどんどん悪化し、4月の車検の際2か月程預けて様子をみてもらい、クルマを引き取った帰り道、人生初の三角表示灯&レッカーのお世話になりクルマ屋へUターン。
預けている間はそこまで酷い状態はなかったそうで、その後電磁ポンプを装着。
今は健康体を取り戻しています(と信じたい)。 車検の度に“どこまでやりますか?”と聞かれますが、ここがヒジョーに難しい所に来ていると思います。
来年で30年になりますが、僕と共に老いてるため、僕にとっては乗り心地、加速、ギアシフト等全く変わらないのですが・・・。
まあ前述のパーコレーションでかなり乗る頻度を少なくしていましたが、これからはもう少し頻繁に付き合っていきたいと思っております」
スニーカーの数は、あれから増えているのだろうか?
大瀧安広さんにメールを差し上げると、「再掲載は急ぎますか?」と返信が来た。もうじきタイヤをオリジナルサイズに戻すので、せっかくだからその画像を撮って送りたいという要望だった。
世界の自動車を網羅した年鑑が日本で発行されなくなって、ずいぶん経つ。かつてはニ玄社だけに限らず、朝日新聞社やモーターマガジン社などからも発行されていたのに、いまではみんな止めてしまった。
アウトビアンキA112アバルトを25年間で7万キロ乗り続けている大瀧安宏さん(49歳)も、中学生の頃からそうした年鑑を楽しみにしていたひとりだ。
「毎年、学年末試験が終わる頃に出ていたモーターマガジン社の『世界の自動車』を見て、初めてこのクルマを知りました。まとまったカタチが気に入って、好きになりました」
大学に入学し、1979年の春休みに、大瀧さんはヨーロッパを旅行する。ミュンヘンの知人宅をベースにあちこち回りながら、開催中だったジュネーブ自動車ショーを見学に出掛けた。
「いろんなクルマを見ることができましたが、強く印象に残ったのがA112アバルトとランチア・ベータHPEでした。ベータHPEも魅力的でしたが、現実的に自分が手に入れることができそうなのは、もちろんA112でしたから」
クルマも好きだったが、ファッションにも自分の好みを強く持っていて、スニーカーやジーンズを通して外国への憧れを具現化していた。この旅では、“本場の”アディダスを20足も買ってきた。
帰国後、東京杉並の自宅近くのホーク総業という業者がA112アバルトを輸入し始め、すぐに見に行った。
「でも、200数十万円という価格は、学生には非現実的でした」
しかし、スポーツ用品販売会社に就職してすぐに、JAXが189万円という価格で売り始めた。
「新人サラリーマンに、数十万円の違いって大きいですよね。グッと自分の中で現実味を帯びてきて、尾山台まで買いにいきました」
A112アバルトを購入すると、夢中になっていたウインドサーフィンを屋根に積んで、毎週末、湘南海岸や富士五湖に通った。当時のマストは二分割できないから、ボディから前後に長くはみ出してしまう。鎌倉の交番の前で警官に停められ、はみ出し部分がボディ全長の10パーセントを超えていたために、違反切符を切られ、5000円の反則金を支払った。
早朝に杉並の家を出て、湘南の場合には午前9時に開く駐車場の前に並び、車内で仮眠を取るというパターンが続いた。しかし、風と波が良くなければ、一本も乗らないで帰ってきてしまうこともしばしばあった。「“そんなのレジャーじゃない”って納得できなくなってきたんですね」
大瀧さんも奥さんも、都内の会社に勤めていたが、意を決して、湘南に引っ越してきた。通勤に1時間30分掛かることになるが、ふたりの共通の趣味を優先することにしたのだ。
「こっちに引っ越してきてからは、ボードに乗る本数は、むしろ減っています。風と波がいい時だけ、歩いて出掛けていけばいいですから」
最初に住んだ江ノ島に来た95年に、A112アバルトの距離計は5万キロを刻んでいた。最近、7万キロを超えたばかりだから、クルマの距離も伸びていない。途中、アルファロメオ164Q4を買い足し、新車から4年間で2万5000キロ乗ったことを差し引いても、あまりクルマに乗らなくなってしまった。
「この辺は駅にも近く、毎日クルマに乗らなくても困らないですからね」
大瀧さんは、A112に乗り続けている理由を、“使い切れる性能”にあるという。
「3速で、4000から5000回転ぐらい回して走っている時が、一番楽しい。野太いエンジン音、クイックかつダイレクトな運転感覚。実感がある。クルマだけで走っているのではなくて、“自分の仕事”ができる。ドライバーの役割をこなせるんですね。164Q4の本当にいいところは、120km/h以上じゃないとなかなか味わえないですから」
数年前にも、アウディのキャンペーンに当選して、S4を2週間預かって試乗したことがあった。
「トルクが太くてフラットだから、6速マニュアルのギアが何速に入っていても関係なく加速していくのがツマらなかった」
A112アバルトはヒドいトラブルに悩まされることもなく、走り続けている。ラジエーターホースからの水漏れや、シフトリンケージに付属するプラスチック部品が破損してギアが入らなくなったことぐらいだ。どちらも、自分で応急措置を施して、JAXへ持ち込んだ。
「あの頃のJAXは、店全体がアットホームな雰囲気で良かった。突発的なトラブルで持ち込んでも、すぐに直してくれたし、待っている間に、デモカーを試乗し放題。フィアット・リトモ130TCのエンジンのトルク感とトルクステアには驚かされました。同じように、125TCやレガータ、パンダなんかにも乗せてもらいました」
試乗しにディーラーに赴くことが、最近減ってきた。
「でも、グランデプント・アバルトには興味ありますね。NAVIに載っていたSSが気になる。運転したら、面白そうじゃないですか」
とは言っても、A112アバルトには乗り続けるつもりだ。電気系やエキゾースト系が気になるところだ。ここ数年は、25~26万円を費やして車検を通している。
「これ以上、費用が掛かるようならば、乗り換えを考えますけど、僕たちの暮らしぶりに合っていますから、換える必要を全く感じません」
奥さんとペルという名前の猫と暮らす大瀧さんは、好きなものに囲まれて生活している。無理をしている感じがなく、正直なところがうかがえる。
「クルマだけじゃなくって、“モノ所有欲”が強いんですね。だから、スニーカーも捨てられないんです」
西ドイツでアディダスを20足買う前から履いていたすべてのスニーカー約200足を、大瀧さんは持っている。いつでもすぐに履けるように棚に収めてあり、ソールの発砲ウレタンが化学変化を起こしてポロポロと落ちてくるようになったものまで、きちんと箱に保存してある。A112アバルトのドライバーズシートからも、スニーカーのように硬化した発砲ウレタンが粉になってシートの中から床に落ち始めている辺りは、ちょっと心配だ。
アバルトのロゴが大きくプリントされたTシャツや作り掛けのA112アバルトのプラモデルまでも、大事に取っておいてある。
A112アバルトは、大瀧さんにとって生涯2台目のクルマだ。さすがに、最初に乗った初代ホンダ・シビックはもう持っていないが、クルマに求めるものは変わらない。昔のものばかりなのに古臭く感じないのは、笑顔だけでなく、大瀧さんと奥さんにはずっと好みを貫き通してきている清々しさが漂っているからだろう。
『NAVI』誌2008年3月号より転載
●A112アバルトとは?
消滅してしまったアウトビアンキ社から1969年に発売された小型車A112の高性能版。アバルトは71年に発表され、スポーツ/レーシングコンストラクター「アバルト」の名前が冠されたのは、両社の共同生産計画が存在していたためだ。横置きした1・1リッター4気筒エンジンによって前輪を駆動する。アバルトのブランドネームと、独自のグリルと黒塗りボンネット、2本出しマフラー、ステアリングホイール、シートなどの演出によって、スタンダードのA112とは異なった雰囲気を醸し出すことに成功している。大瀧さんのように、そのスポーティな運転感覚とルックスに魅せられたファンは、当時は多かった。
10話
アメ車好きの赤ヒゲ先生
田中英一さんとクライスラー・グランドボイジャーLE(1998年型)
9年 15万km
田中英一さんに5年半ぶりに連絡したのはFacebookのメッセージを使ってだった。「お知り合いでは?」と促され、友達になっていたのだ。
さっそくヴォイジャーのことを訊ねると、2007年3月の取材の1年3カ月後に残念ながら廃車されてしまっていた。
「ボイジャーは16万キロを越えるまで頑張ったのですが、エアコンが壊れ、2008年6月に廃車となりました。犬が暑さに弱いので、もう限界だと考え、2007年の11月頃にプリウスを購入しました。プリウスを購入したのもムーンアイズの菅沼社長にいつも燃費の悪い車ばっかり乗ってるんだから、足車くらいは燃費の良い車にしなよと言われ、プリウスにしたんですが、そのプリウスも先月二度目の車検で、9万4千キロを越えました。(笑)」
インターネットが発達したおかげで、メールやFacebook、twitter、最近ではLINEなどのSNSなどによって以前に取材させていただいた人に近況を訊ねやすくなったのはとても助かる。
田中さんはご自身の自動車生活ともに格闘技選手へのサポートとその交流ぶりをFacebookに頻繁に更新してくれるので覗かせてもらうのが楽しみだ。
ミニバンを購入する動機のほとんどは子供によるものだ。
子供と一緒に遠出をしたり、アウトドアスポーツを楽しむのにミニバンの広い車内はなにかと便利だし、都合が良い。
神奈川県で歯科医院を開いている田中英一さん(43歳)も、クライスラー・グランドボイジャーLEを購入したキッカケは、やはりふたりの息子たちにあった。それまでフォルクスワーゲン・ゴルフワゴンに乗っていた。
「ケンカばっかりしていた息子たちを引き離すのに、セパレートシートが好都合でした」 グランドボイジャーの2列目シートは、左右シートが独立し、間が通路となっている。キャプテンシートとも呼ばれるタイプだ。
「ゴルフワゴンでは、“シートのこの線からこっちへ来るな”とかって、息子たちはよくモメていましたから。ハハハハハハッ」
自我が芽生え始めた小学生は、学校の机などでも自分の領域を主張し始める。誰にでも憶えがあるだろう。
元気な息子たちはサッカーで活躍し、全国中学校サッカー大会に出場した。四国の松山で開催された大会には、グランドボイジャーで家族で応援に出掛けた。
「妻の実家の大阪にも、犬を乗せて、このクルマでよく行っていました。ゴルフワゴンと違って、長距離がとても楽なんですよ」
キャプテンシート、室内空間の広さ、左右スライドドアなどと併せて、リアシートにもエアコンの吹き出し口があり、グランドボイジャーを選んだ理由だという。でも、他に何か違うクルマと比較検討していたというわけではない。
アメリカのクルマが好きなのだろうか?
「アメリカのクルマは好きですよ。GT350を10年間持っていましたけど、開業資金のために手放しちゃいました」
田中さんはサラッと口にしたが、1966年型シェルビーGT350とは相当にマニアックなクルマである。フォード・マスタングのボディにSCCAプロダクションレース用エンジンと足回りを組み込んだロードゴーイングレースバージョンだ。
「ワトキンズグレン・サーキットで行われたシェルビー・アメリカンのイベントを観に行った時に、キャロル・シェルビーが運転するGT350Rの助手席に乗せてもらったこともありますよ」
またまた、スゴいことをサラッと口にする。アメリカ留学中には、勉学の傍ら、各地のトイショーなどを訪れ、ミニカーを買い漁ったりした。それを元に、開業前に日本でミニカーショップを3年間経営していたというユニークな経歴も田中さんは持っている。
所英男選手をはじめとする格闘技パンクラスの選手たちをよく連れて行くというレストランのハンバーグを頬張りながら、田中さんのクルマ遍歴をうかがう。格闘技選手たちは、田中さんのところに試合用のマウスピースを作りに来ている。
ホンダS600から日産フェアレディ(SR311)に行き、アバルト695SSなんて珍しいものに乗っていたこともある。わざわざ左ハンドルの日産ブルーバード(510)・2ドアセダンを手に入れて、リアシートなどを取り外し、白と赤に青の2本ストライプのBREカラーに塗り直して、筑波やもてぎなどのサーキットに走りに行ったりしている。
BREとは、Brock Racing Enterpriseの頭文字で、Brockとはアメリカ人レーシングドライバーのピート・ブロックのことだ。第4回日本グランプリに日野サムライというプロトタイプでエントリーしたが、些細な車両レギュレーション違反を問われて決勝に進出できなかったことで有名だ。
「510ブルーバードが好きなんじゃなくて、BREが好きなんです。ゴーイチマルじゃなくて、ファイブテンなんです。ハハハハハハッ」
そんなアメリカ好き、アメリカ車好きの田中さんが選んだグランドボイジャーは、医院への横浜の自宅からの通勤や帰省、キャンプ、子供のサッカーなどに用いられている。
猫っ可愛がられたりせず、実用的に使い込まれているから、相応の経年変化も認められる。それでも、助手席の乗り心地はとても快適で、これならば田中さんの言う通り、長距離走行は楽に違いない。ギスギス、セコセコせずに、空間の取り方に余裕があり、路面からの動きのいなし方にもヨーロッパ車とは違う鷹揚さが感じられる。
「大きなトラブルは、発生していません」
思い出してもらうと、6万キロ時にギアがローのまま走り続け、シフトアップしない症状が起こったが、クレーム処理で直った。また、2年前にラジエーターから水漏れが起こり、約7万円を支払って交換した。最近では、アイドリング不整とエンジンオイルの滲みが起きている。
「壊れないクルマで助かりましたよ」
気に入って乗り続けているわけだが、買い替えられるのなら買い替えたいそうだ。
「儲かっていたら、新しいボイジャーに買い替えていますよ」
繁盛しているように見えるのだが……。
「僕が考える理想の歯科医師像と現実には隔たりがあって、なかなか儲かるようにはならないんですよ」
田中さんは優しく苦笑するが、聞けば聞くほど歯科医院の経営は難しく厳しい。
「もともと、治療は好きじゃないんです。特に、患者が痛がる治療は、やっている方もイヤじゃないですか」
でも、歯を治療しない歯医者なんて矛盾している。
「理想は、歯を虫歯や外傷から守って、予防することなんですよ。人工的な治療を施した歯というのは、養分も行き届かず、いずれは壊れていきます。格闘技や他のスポーツ選手のためにマウスピースを作っているのも、歯を外傷から守るという予防治療の一環です」
でも、予防だけ行っていたら、今の日本の医療制度ではお金ならない。
「歯を削って、何か詰めないことには経営が成り立たないような構造にあるんです」
クルマが故障したり、消耗したりしないと自動車工場の仕事が発生しなくなるのと同じことだ。
「経営は厳しくなりますけれど、ウチでは予防治療に力を入れています」
小児歯科ではないのだが、“歯磨き道場”と題して子供たちに歯磨きの重要性を教え、スポーツ選手のためにマウスピースを作っている。どちらも予防治療だ。楽しく競わせながら正しい歯磨きの習慣を身に付かせるために、子供たちの顔写真が診察室に張り出され、パンクラスのポスターも張られている。みんな朗らかな顔をしている。
田中さんはグランドボイジャーにもう少し乗り続けなければならないのかもしれないが、ここに写っている患者と選手たちのにこやかな笑顔を励みにしているのだろう。
『NAVI』誌2007年6月号より転載
●グランドボイジャーとは?
1983年に初代がデビューしたクライスラーのミニバン「ボイジャー」の全長とホイールベースを延ばしたもの。アメリカでは、「プリムス・ボイジャー」と「ダッジ・キャラバン」と呼ばれる。田中さんのLEは前輪駆動だが、4輪駆動版も存在する。もともと、クライスラーはフルサイズバンの「ダッジ・ラムバン」をヒットさせていたが、ひと回り小さなミニバンを乗用車ベースで開発した。それが、ボイジャーだ。前輪駆動サルーンのプラットフォームを用いることで、快適性と走行安定性に優れていた。1992年からは、シュタイヤー・プフ社(クライスラー買収に手を挙げている、現在のマグナ・インターナショナル社!)のオーストリア工場で生産されるようにもなり、ヨーロッパでもよく見掛ける。
11話
洗い張りされた赤いちゃんちゃんこ
酒井達彦さんとランチア・デルタ・HFインテグラーレ・エヴォルツィオーネ2(1995年型)
12年 15万km
久しぶりに酒井達彦さんにメールを差し上げると、長文の返信が来た。酒井さんは、取材時にランチア・デルタインテグラーレのエヴォ2に12年13万6000km、それもお父上と一緒に乗られていた。
ご自身とお父上とインテグラーレのその後の様子が丁寧な文章によって画像付きで綴られていたので、ここに引用させていただきたい。
「お会いしてから、4年半位たちましたが、走行距離は1万キロ増えたくらいです。それまで、年に1万キロ以上乗っていたことを考えると(ペースは)1/5くらいになってしまいました。
父親は大病を患い手術をしたことと、今年77才になったこともあり、以前車を乗る最大の口実のゴルフも1年前くらいから止めてしまいました。
私も、2010年4月からタイのバンコクに二度目の駐在となり、結局ここ二年はほとんど動かしていない状態となりました。
実質車がなくても生活にはふたりとも、全く支障はないのですが、やはりこのデルタを手放すのはお互いになにか物寂しいものもあり、以前から面倒見てもらっている埼玉のB‘s GRAGEさんがこの乗らない状態を知った上で、年に二回調子を見てもらっています。
先日も帰ってデルタに火を入れましたが、さほどムズガルことも無くエンジンはかかりました。ただ、オイルが上がっていたのか、かかった瞬間に2サイクルエンジンのように一瞬モウモウと白煙出したのには少し驚きましたが。
近場をぐるりと回って感じたのは、移動具としては現在バンコクで社用車で使っている、カローラアルティス1.8L ATの足下にも及ばない位、すべてがクラシックになってしまったということです。
ボディもきしむし、クラッチやミッション、ハンドルすべてが重く前時代的な感じでした。
しかしながら、ハンドリングやエンジンの抜けなど官能に訴える部分、走ることや操ることの楽しみは、カローラではまったく味わえないもので、古い表現ですがまさに血湧き肉踊るといった感覚を数分で引き出してくれました。
今年の欧州の自動車ショーでも、欧州メーカーはこの厳しい時期でもスポーツカーや、スポーツ仕様のバリエーションを沢山紹介しています。モーターサイクルも現在欧米共に大変厳しい市場環境です。でも私はデルタに乗る度に、時代がどんなに変わっていってもやはり走る楽しみを無くしてはいけないのではないかと、自問自答しています」
海外駐在中だけれども、日本に置いてきたインテグラーレへの酒井さんの想いが伝わってくる。
「添付の写真は、当日取材の時に止めていた場所で撮影しました。遠目では綺麗に見えるのですが、近づくとルーフの写真のように、塗装は前回のレストアから5年ですが、またもクリアーが剥離してかなり悲惨な状態です。中身(エンジンや足回り)は普通に乗るには何ら支障がないコンディションですが
外装に関しては青空保管ということもあり、かなり厳しい感じです。
B's GARAGEさんからも、塗装についてはかなり本格的にレストアしないといけないとうかがっています。中身といえば、今年B's GARAGEさんへ夏前に親父が持っていった際、特に夏は暑くて乗る気がしないと話した所、出入りしている他のデルタ乗りの方が自前でカーエアコン関係の会社にデルタ用の
エアコンパーツをワンオフしたらしく、かなり涼しくなったという話を聞き、そのデルタのオーナーさんがB's GARAGEに、他のデルタ乗りの人にもそのパーツを紹介しても良いと言ってくれたこともあり、取り付けてもらいました。
家庭用エアコン一台分くらいの費用がかかりましたが、真夏日でも十分涼しい風が出るようになりました。(とはいえ、国産車のように車内が寒くできる程は効きませんが)
いま私の手の届く範囲に、残念ながら魅力的な車が見当たりません。メガーヌ・ルノースポルトトロフィーか、先のパリショーで出ていたアバルト695フォリセリエくらいでしょうか。駐在がいつまでかまだ分かりませんが、なんとかデルタを維持してもう一度綺麗にレストアして箱根を駆け抜けたいなどと思っています。20万キロは無理かもしれませんが、20年はなんとかたどり着きたいと思っているこの頃です」
費用は嵩んでしまうが、面倒見のいい工場を知っている。駐在しながらでもコンディションを元に戻しながら、お父上を助手席に乗せて箱根で思う存分に走れる日が来るといい。僕もそれを願っている。
歳は取っても、身体も心も柔軟でありたい。年齢じゃない。精神のありようや、姿勢の問題なんじゃないか。そんな僕の想いを実証しているような人に会った。
73歳の酒井達也さんは、ランチア・デルタ・インテグラーレ・エヴォルツィオーネ2に、もう12年間で13万6000km以上も乗り続けている。デルタは新車で購入し、息子の達彦さん(43歳)と共同で使用している。ふだんは、達也さんが買い物やゴルフに使い、達彦さんは休日に仲間とツーリングに出掛けたりする楽しみ専門に乗っている。
ふたりがデルタの実車を初めて見たのが1995年の春。国道16号線沿いの「アレーゼ」に陳列されていた。達彦さんは、デルタのことをよく知っていたが、達也さんは知らなかった。6年12万キロ乗った日産スカイラインGTS4を、ちょうど買い替えようかと相談していた。
「還暦を迎えてクルマを買い替えるのもいいかなって思いましてね。色も赤だし、ちゃんちゃんこみたいでいいじゃないですか」
話し方に勢いがあって、リズムとテンポが生き生きしている。達也さんは、とても73歳には見えない。
当時、60歳で勤めていた会社を定年退職するところに、世界展開している外資系企業から、日本支社を設立し、代表を務めてくれないかとオファーを受けていた。
「同級生からは、“止めとけ、止めとけ。60歳にもなって、新しい仕事でもないだろう。余生を楽しんだらどうだ”って、今の会社に勤めることを反対されましたけど、私は反対にヤル気になりましてね」
そのついでというわけでもないのだろうが、デルタを購入することに達也さんは反対しなかった。
「父はクルマにあまり詳しくないので、ランチアといっても“イタリアのベンツ”ぐらいにしか思っておらず、その後にどれだけ手が掛かるようになるかなんて想像もしていなかったから、買ったようなものなのかもしれませんね。ハハハハハハッ」
達也さんも、一緒に笑っている。
達彦さんはGKダイナミクスに勤め、ヤマハの2輪車デザインに携わっている。
職業柄、達彦さんは2輪と4輪の違いをいつも意識している。
「2輪はレースと近いけど、4輪はそれほどでもないんですね。2輪にはレーサーレプリカがありましたけど、4輪はそれほど近いわけではありません」
だが、グループBマシンで競われていたWRC(世界ラリー選手権)がグループAに変更になったことで、デルタの出番が来た。ランチアは、グループBの「デルタS4」ではヘンリ・トイボネンを失い、チャンピオンシップも逃した。
「デルタは本来、(ジョルジェット・)ジウジアーロのキレイなフォルムの2ボックスカーでしたけど、インテグラーレは、ドーピングを受けたようなもんですよ。2輪のレーサーレプリカに通じるものがあります。そこが魅力であり、アキレス腱でもあります」
酒井さん父子は、そんなデルタを10年10万キロ以上乗ることで、その魅力とアキレス腱を身にしみて体験していった。
「カタチがフンバタガッテいる。蟹みたいなカタチなので、安定感があるんです」
“フンバタガッテいる”とは、達也さん流の表現だが、運転しているところが想像できるではないか。
「妻の実家に行く時に、中央高速を茅野で降り、杖付峠を越えて伊那谷へ抜ける峠道を通りますけど、よく走ってくれて楽なんですよ。スカイラインだとカーブでタイヤがキーキー鳴いていたのが、このクルマじゃ鳴きませんからね」
依頼を受け、日本法人を設立し、取引先に赴く時にも、デルタをひとりで運転して行くことが多かった。
ちょうど、“インテグラーレ人気”が盛り上がっていた頃だったから、クルマ好きの社員が駐車場に停められたデルタを取り囲んでいた、なんてこともよくあった。
達彦さんは、非日常的でエンスージアスティックな乗り方をしている。
「バイク仲間と一緒にツーリングに行って、峠道でも同じペースで走れます」
穴が開いたマフラーをANSA製に、グリルとヘッドライトもパーツを取り寄せて、ヨーロッパ仕様に作り直した。ルーフエンドのスポイラーのエクステンションも付け加えた。
達彦さんの解説を聞きながら、デルタが生産されていた頃のことを自分なりに思い出してみる。デルタは、ラリーでの勝利を追い求めるため、インテグラーレを生み出し、どんどん先鋭化していっていた。
「“パーパスビルドされたクルマの美”なんですよ」
デルタが、モデルチェンジすることなく、どんどん姿を変えていく様子には執念のようなものさえ漂っていた。
「自分も2輪に携わっているので、ランチアの意地がわかります。“作り手の意地”が確実に込められているところが、魅力でしょう。作り手の気持ちが入るモノを作らないと、と自覚させられます。ええ」
大小のメカニカルトラブルには、事欠かない。先日も、新大宮バイパスでゴルフ帰りに電送系と思われるトラブルからエンストした。後続車が続々と迫り来る中、達也さんがハンドルを握り、奥さんが走行車線を押して進んでいたら、沿道の「ドンキホーテ」の店員が飛び出してきて、押すのを手伝ってくれた。
信頼できるガレージに、早め早めにパーツを取り替えてもらうようにしているから、費用も掛かっている。
「確実に1000万円以上は遣っているはずです。気が滅入るから、修理履歴は見返さないようにしていますよ。ハハハハハハッ」
それでも、さらに乗り続けるために、昨年、一大オーバーホールを施した。ボディ再塗装、シートのアルカンタラ表皮張り替え、エンジンオーバーホールだ。約150万円掛かった。達也さんには、バケットシートは乗り辛くはないのだろうか。
「このシートはいいですよ。スカイラインのシートなんか6年でくたびれて、仕舞いには乗ってても疲れちゃって」
デルタに修理費用がかさんでいることは間違いないのだが、スカイラインはその手前の段階で痛みが激しかったというのが、父子の見解だ。
「4年目から急速に劣化してきましたね。反対に、デルタは手を入れれば確実にその分良くなるから、今でも運転していて本当に気持ちいいですよ」
数年前、大きなトラブルが連続した時に、処分しようかと話が出たこともあった。オーバーホール後は調子がいいのと、ふたりの走行距離が減りつつあることでうまくバランスが取れているので、今は、ずっと乗り続けようと言っている。人間と同じように、クルマのリフレッシュも大いに効き目があるようだ。
『NAVI』誌2008年4月号より転載
●デルタ・インテグラーレ・エヴォルツィオーネ2とは?
1979年に発表されたデルタは、1.3および1.5リッター4気筒で前輪を駆動する小型車だった。87年からのWRCがグループAで争われることが決まり、86年に投入されたのが、テーマi.e用2リッターターボエンジンと4輪駆動を組み合わせた高性能デルタ「デルタHF 4WD」だった。WRCタイトルは獲得できたが、さらなる競争力強化のためにブリスターフェンダーを張り出し、ダクト類を多数開けたボディにパワーアップしたエンジンを搭載した「インテグラーレ」が発表された。その後、「同16V」、「同エヴォルツィオーネ」とエスカレートし、ランチアはWRCメイクスタイトル6連覇を成し遂げた。
森村恭一郎さんのスプリンター・トレノの走行距離は、現在39万8000km。もうじき40万km。2本目のフジツボ製マフラーに2012年秋に交換したところだ。
「調子いいですよ」
森村さんに会った2008年には、本文中に書いた通りにトレノの後継となるようなクルマをトヨタは造っていなかった。しかし、トレノの後継というわけではないのかもしれないけれども、トヨタは86というクルマを造り始めた。正確に言えば、提携先である富士重工業に“造らせて、売っている”。
そこが森村さんには気に入らない。
「トヨタともあろうものが、鳴り物入りのクルマであるかのように宣伝しておきながら自分のところで造っていないなんて」
電話から聞こえてくる森村さんの声は、5年前と変わらず、ハッキリとしていて力強い。論旨も明確だ。86が精神的なバックボーンとしているトレノに40万km近くも乗り続けている人の言葉として説得力がある。
86という車名にも共感できない。ユーザーやマニアたちが仲間内の符丁として使っていた“ハチロク”をメーカー自ら持ち出してきて、いったい誇りというものはないのだろうか!?
カローラ・レビンやスプリンター・トレノという由緒ある名前があるではないか!?
同感する。森村さんは正論の人なのである。ユニクロや最近の楽器メーカーのモノ造りの姿勢についても同じように論じていた。粗製乱造ではないか!? 魂を込めてモノを造るべきだ、と。同感だ。
12話
ジャズマンのハチロク
森村恭一郎さんとトヨタ・スプリンタートレノ(1985年型)
23年 33万4000km
群馬県伊勢崎市の目抜き通りを走っていると、日本ではないような光景が続き、とても面白かった。横に並んだクルマや対向車のドライバーに外国人が多いし、ポルトガル語の看板を掲げた店が少なくない。「沖縄&ペルー料理」と看板を掲げたレストランで昼食を摂ってみたが、空間がどこか外国のものだった。
沖縄出身でペルーに渡り、日本に戻ってきたという夫妻が切り盛りする店のメニューは豊富で、お勧めの臓物料理が美味しかった。そんな界隈でも、一本脇道に逸れれば、伊勢崎の歴史ある顔を覗かさせている。
森村恭一郎さん(57歳)宅の蔵などは、築110年だ。先祖代々の土地に、きれいに手入れをされて、昔のまま残されている。
その横の駐車スペースに、森村さんの1985年型トヨタ・スプリンタートレノが止まっていた。新車から23年間で33万キロあまり走っているとは思えないほど、きれいだ。
リトラクタブル・ヘッドライトにファストバック・スタイルが時代を感じさせるが、赤い塗装は褪せていない。
「生産中止されてずいぶん経つことは知っていましたが、そこまでの人気とは知りませんでしたね」
スプリンタートレノの人気ぶりを思い知らされたのは、今から7、8年前、約26万キロ走っていた頃のことだ。通勤途中で、突然、マフラーから白煙を盛大に吐き出した。
「霧が出たんじゃないかっていうくらい、あたり一面、真っ白になりましたからね」
今も変わらないが、森村さんはプロのジャズ・サックス奏者でもある。23年前は、バンドの楽器を全部、ボンゴに載せて、ライブ会場まで運ばなければならなかった。
しかし、その後、メンバーたちは自身のクルマを持つようになり、各々ライブ会場入りするようになったので、ボンゴは必要なくなった。
「屋根がなだらかに下がっていく、ファストバックが好きなんですよ」
ジャガー・Eタイプ、ポルシェ911、フェラーリだったら365でも512でも、BBが好みだ。ボンゴの前は、トヨタ・セリカ1600GT、日産チェリーX1に乗っていた。
「トレノを買う時、“鉄仮面”スカイラインGTも候補に挙がりました。でも、やっぱり、小型であることが大事ですね。小さくて、速いクルマ」
トヨタのメカニックに乗り続けることを勧められた理由は、ダッシュボードやセンターコンソールなどのプラスチック類の劣化がほとんどないことだった。見せてもらうと、確かにキレいだ。ヒビ割れやシワなどがまったく見当たらない。内張りなども、同様だ。デジタル式のスピードメーターのフォントがひとつも欠けていないというのも、森村さんの自慢だ。しかし、運転席はレカロに換えられている。
「カー用品ショップで、たまたま見付けたんです。腰痛持ちの人のための“医療用”ですが、腰のホールド感がとてもいいです」
一脚10万7000円に、トレノ用ステー代+工賃。オリジナルはヘタッてしまい、困っていた。フタをした空のペットボトルを盆の上に並べ、その上にタオルを敷いたものをヘタッたシートの座面の下に滑り込ませて対策していた。
「このレカロには、値段以上の価値を感じますね。違和感がないし、自然なポジションが取れる」
高校では音楽を教えている。現在、勤務している県立高校は進学校だが、以前の高校は暴走族のメンバーやサボッて問題を起こす生徒がいたので、生活指導も担当していた。
暴走族の集会に、トレノで出掛けていって、指導を行っていた。暴走族ならば、多少はクルマに興味があるわけだから、いくら指導とはいえ、トレノで来る先生には少しはシンパシーを抱いたのではないだろうか。
シートを除いた内装のコンディションは良好だが、マフラーはサビてしまった。社外品の車検対応マフラーに換えてある。フロントサスペンションのトップ部分には、タワーバーも取り付けられている。
フロント・バンパーも褪せていないのに驚いていたら、数年前に交換した新品だった。
「コンビニの駐車場で、予期しない位置にあった電柱にブツケてしまったんですよ」
左側のフェンダーとバンパーを交換した。トレノは人気車だから、こういったパーツは、まだ残っている。
「このカーオーディオも、AE86用の取り付け用パーツが揃っていましたからね」
パイオニアのハードディスク式カーナビ/オーディオ「カロッツェリア」には、CDをたくさん録音してある。
「曲に合わせてリズムを取ったりして、渋滞も苦にならなくなりました」
クルマに限らず、何でも長持ちさせるという。服や時計などの身の回りのもの、本やLPレコードなども捨てない。1960年代に作られたセルマーのサキソフォンを取り出して、ソノー・ロリンズの「セントトーマス」を吹いてくれた。
「モリタートです。セントトーマスいきましょうか」
どちらも傑作『サキソフォン・コロッサス』に収録されており、僕らと奥さんの恵里子さんの前で吹いてくれた。アドリブが挟み込まれた、森村さんの2曲だった。蔵の周囲は、バラやデイジーが咲く恵里子さんの作ったガーデンが広がり、森村さんのバンドのライブも行われることもある。魅力的な空間に、赤いトレノがアクセントになっていた。
『NAVI』誌2008年7月号より転載
●トヨタ・スプリンタートレノとは?
歴代のトヨタ・カローラ/スプリンター・シリーズに設定されていた、スポーティモデル。カローラ版は、レビン。AE86は小柄なボディにFRエンジンレイアウトを採用し、当時まだ高性能エンジンの代名詞だったDOHC機構を持つ4A-GEUエンジンを搭載していた。
リトラクタブルではないヘッドライトやノッチバックスタイルのバリエーションもあったが、AE86が主役ばりの活躍をする漫画『頭文字D』は巻を重ね、映画にもなった。
AE86の次のAE92はカローラ/スプリンター・シリーズ全体が前輪駆動化されたのに伴ってレビン/トレノの車名こそ引き継いだが、AE86ほどの人気を得ることはなかった。トヨタと、そのグループ入りしたスバルが共同開発すると伝えられている小型スポーツカーにAE86のイメージが重ねられている。
13話
60%から始まる
末永圭三さんとフィアット・パンダ1000Si.e.(1991年型)
17年 9万8000km
アーカイブへの再掲載の許可をもらうために末永圭三さんにメールを差し上げると、すぐに快諾の返信が来た。ちょうど年末年始休暇で出掛けたフランスとイタリアの旅から戻ってこられたところで、楽しそうな様子も綴られていた。
マラネロのフェラーリ美術館ではピニンファリーナ展を見学し、工場の向かいのリストランテ・キャバリーノで舌鼓を打ち、レンタカーのフェラーリ・カリフォルニアまで運転して満喫してきた。
「フランス国内はシトロエンDS3のレンタカーで回りました。イタリアではフィアット500を予約していたのですが、手違いでルノー・トゥインゴが配車されてきた辺りはイタリアらしいですね」
苦笑している末永さんの顔が思い浮かんでしまうのは、取材させてもらったフィアット・パンダが17年9万8000km乗る間で、散々に壊れ、イタリア車の故障の多さやイタリア人の仕事の進め方を思い知らされたことを聞いていたからだ。
イタリア車とイタリア人を断罪しただけで終わってしまったら、ストーリーにはならなかっただろう。幸いメカニックにも恵まれ、故障を直しながら乗り続けていくうちに、イタリア車とヨーロッパ車の本質をつかむまでに至った。
「リストランテ・キャバリーノは良かったです。リーズナブルなのにクオリティが高く、大満足できました」
20代中頃まで運転免許を持たずクルマに縁の薄かった末永さんが、どのようにして最終的にはマラネロでカリフォルニアのドライブを楽しむようにまでなったか?
大袈裟でなく、人生をより積極的なものに変えることになったパンダとその他のクルマたちとのストーリーがあったからだった。
ナカミチという音響機器メーカーを、ご存知だろうか。
1973年に発表された「ナカミチ1000」にはじまり、理想を追い求め、独創的な発想とメカニズムをふんだんに盛り込んだカセットデッキやレコードプレーヤーでオーディオマニアに熱狂的に支持されていた。
僕も、カーオーディオのヘッドユニットをナカミチのものに代えたことがある。音質が素晴らしいのはもちろんのこと、操作性の良さに感心させられた。ほとんどの日本製カーオーディオのデザインがパチンコ台のようだった時代だったので、ナカミチの孤高ぶりは際立っていた。
現在、デザイン・コンサルティング会社にCIディレクターとして勤務する末永圭三さん(45歳)は、20代の頃に勤めていたナカミチの先輩や上司、同僚たちの影響でクルマ好きになった。末永さんは、フィアット・パンダ1000Si.e.に17年間で9万8000km乗り続けている。
「ナカミチに勤めていた頃は、まだ運転免許も持っていませんでした。残業で終電に乗り遅れると、BMWの318iで通ってきていた法務部の先輩に送ってもらっていました」
社内に、クルマ好きは多かった。上司は初代VWシロッコに、デザイン部門のトップはマツダ・カペラに、また、別の上司はいすゞ・ピアッツァと三菱ランサー・ターボを2台ずつ乗り継いでいた。
「先輩たちの影響から、23歳の時に免許を取りました」
末永さんが免許を取ったことを知ったナカミチの人たちは、アレがいいんじゃないか、いやコレじゃないかと勧めてくれた。そのうちの一台が、VWゴルフⅠだった。ソノ気になり、色はモナコブルーに決めるまではいった。
「中古の相場が、120~130万円ぐらい。でも、ゴルフⅠに乗っていた先輩から、“止めておけ”と停められました。三角窓が、何度も落ちたそうです」
もう一台の候補が、フィアット・パンダだった。
「雑誌の『POPEYE』で紹介されていたパンダの、シンプルなエクステリアを強烈に憶えていました」
ゴルフⅠの代わりに、今度はパンダが浮上してきた。
「“お前の安月給では維持し切れない”とか、“イタリア車はボディがサビ始めると床が抜ける”とか先輩たちから停められました」
代わりに購入したのが、ホンダ・シティの最廉価版“U”。5年間シティに乗り、クルマの楽しさを知った。また、担当のホンダのメカニック氏と知り合えたことも大きな収穫となった。整備を通じて教わることが多かった。
それにとどまらず、次に買い替えたパンダの一回目の車検まで手伝ってくれた。整備を依頼し、できあがったパンダを末永さんが民間車検場に持っていった。
パンダを購入した時には、ナカミチから数えて三つ目の会社に移っていた。その間に、結婚し、子供もふたり生まれた。クルマのことを教えてくれる人たちは身近にいなくなってしまったが、末永さん自身がクルマ好きになっていた。
「クルマそのものに、もっと関わっていきたくなったんですね。免許を取って乗ってみたら、面白かった」
パンダへの想いは断ち難く、また、デザインしたジョルジェット・ジウジアーロのことを知っていくほど、どうしても欲しくなった。新車での購入は、当時の正規輸入代理店サミットモータースだった。
免許を取って5年が経過し、もはや、クルマの初心者ではなくなっていた。だが、パンダからは強烈な先制パンチを受けた。
「購入したその日に、後席に子供を乗せるため、助手席のシートを持ち上げたところ、床の上にプラスチック製パーツ数点と丸められたメモ用紙を見付けました」
いい加減な生産行程と品質管理を見た思いがした。
「パーツは明らかに何かの部品で、先が思いやられました」
案の定、パンダはトラブルを連発した。
「赤坂見附の交差点で、シフトレバーのリンケージが外れて、身体が助手席に倒れ込んだ時は、頭が真っ白になりました。その後も、組み直しては外れての連続」
トラブルは、いろいろ起きた。ピックアップコイルおよびイグナイターの不具合が数回、オイル上がり、タンクからのガソリン漏れ、フロントサスペンションのジョイントのガタ。 他にも、燃料ポンプ、ステアリングラック、ラジエーターなどが故障した。最近では、運転席ドアの鍵がシリンダーごと抜けて、交換。予想していた通りの、イタリア車ならではのトラブルだと失望した。
「でも、最初の5年間に発生したトラブルを処置してからは、むしろ調子は上がっていきました。60パーセントぐらいの仕上がりの状態が新車で、そこから手を入れながら安定していきました」
赤いボディが艶っぽく輝いて見えるのは、降り出してきた雨のせいではなかった。2000年にボディを全塗装し、ふだんはカバーを掛けて駐車しているからだ。
パンダに乗るうちに、ナカミチの先輩たちのように、末永さんはクルマ好き、それもヨーロッパ車の魅力に惹かれていった。奥さん用のローバー・ミニ、ランチア・デルタ・インテグラーレ・エヴォルツィオーネ2なども所有している。
「国産車は時間の経過とともに品質が下がっていきますが、手入れを施したヨーロッパ車は逆ではないでしょうか」
先日も、長男用に買ったBMW318tiの、10年落ちとは思えない品質の高さに舌を巻いた。
「わざわざクルマで出掛けていく目的なんて、そうそうあるもんじゃありません。パンダはコンビニに行くのだって楽しいですよ」
パンダはコストを削減するために、すべて平面の鉄板とガラスで造られている、と言われている。
「それは違います。ボディサイド面は、フロントドアを頂点にして、実は前後に湾曲しているんです。“それに気付いた時、平面に見えるよう”にデザインしたジウジアーロの計算し尽くされた技に目眩に近いものを憶えました。すべて平板を用いていたら、視覚的な緊張感を維持できずに、貧弱に見えてしまうでしょう」
タイプの異なる他のクルマに乗りながらもパンダを持ち続けているのは、ジウジアーロのデザインに今でも勉強させられ続けているからだと、末永さんは謙虚に答える。
「パンダもデルタもミニも318tiも、みんな道具としての本質を突き詰めて造られています」
“本質を突き詰める”とは、ナカミチのモノ造りそのものではないか。
「ナカミチは、原点です」
末永さんのカーライフだけでなく、デザイナーとしての現在に、ナカミチは確実に大きな影響を及ぼしている。しかし、2008年5月31日、ナカミチは国内販売を終了してしまった。残念である。
『NAVI』誌2009年2月号より転載
●フィアット・パンダ1000Si.e.とは?
1980年から2002年まで生産されたフィアットのベーシックカー。さまざまなエンジンが搭載され、中にはモーターを用いた電気自動車の「エレッタ」やCVT装着車、4輪駆動版などもあった。本文中にもある通り、造形はジョルジェット・ジウジアーロによるが、彼は造形のみならず、ベーシックカーはどうあるべきかの機能面に於いてもコンセプト立案に関わっていた。
モデルを大きく分けると、フロントグリルのエアインレットがオフセットしている前期型と、当時のウーノからクローマにいたるフィアット各車と同じモチーフの、黒いグリルにクロームの4本スラッシュを採り入れ、ボデイサイドに太いモールを付けるようになった後期型があった。末永さんは、後期型を好んでいる。
「ジウジアーロが原型を造り、その後にユーザーなどみんなで磨いたのが後期型です」
ちなみに、現在、日本でも販売されているパンダは、本来、ジンゴという名前で生み出されることになっていた、まったく別のクルマである。
14話
クサビの世代
相田祐次さんといすゞピアッツァXEハンドリング・バイ・ロータス(1990年型)
15年 10万5000km
最近は、いすゞ・ピアッツァのようなクルマが少なくなっている。デザイナーが思う存分腕を振るい、インテリアもエクステリアに負けないくらい新しい造形を試みている。
クルマは機械であるけれども、同時に“商品”でもある。優れた機械であるだけでは欲しくなるとは限らない。魅力がなければ欲しくはならない。ときどき街でピアッツァを見掛けると、そんなことを考える。
相田祐次さんはピアッツァに惚れ、自分のクルマはピアッツァしか持ったことがない。15年10万5000km走行時に取材させてもらった記事を再掲載します。
久しぶりにメールを差し上げたところピアッツァは快調に走り続けていたが、2012年にダッシュパネル、リヤエンドパネルの補修などを、いすゞテクニカルセンターで行った。
また、フロントフェンダーパネル左右の傷みを合わせて鈑金も実施。クランクシャフトのプーリも交換した。カーナビユニットも、イタルデザインを意識されたわけではないだろうが、カロッツェリアの1DINから2DINのものに交換した。
相田さんは、「快調なピアッツァライフもディーラーの担当者さんのおかげです」と感謝し、2013年は秋に車検を予定している。
●日本車らしくないデザイン
ジョルジェット・ジウジアーロは、自らの膨大な作品群と半生を、今後どのように回想するのだろうか。
現在は、息子のファブリツィオが跡を継いでいて、御大は、イベントなどに時おり顔を見せたりしている。数年前のジュネーブ自動車サロンで見掛けたときも、増えた白髪が年月を感じさせるものの、仕立てのいいダブルブレステッドのダークスーツをビシッと着こなした姿は、往年のいすゞピアッツァのカタログで、ピアッツァの傍らに立って映っていたのと変わらない。
埼玉県川越市役所に勤務する相田祐次さん(48歳)は、往年のジウジアーロ作品に憧れ、15年前にピアッツァを手に入れてから、ずっと乗り続けている。
ピアッツァを好きになったのは、やはり、そのカタチだった。ピアッツァが東京モーターショーで発表された1980年に、相田さんは21歳。自宅には、トヨタ・マーク2とホンダ・シビックがあった。 「日本車らしくないデザインをしていて、カッコ良かった。“いつか買いたい”と強く思いました。その頃に好きだったのは、フォルクスワーゲンの初代ゴルフやシロッコ。どちらも、ジウジアーロの作品であることは知っていました。ゴルフやシロッコは高くて、“買おう”なんて考えたことはありませんでした」
相田さんの気持ちは、よくわかる。ゴルフやシロッコの価格は安いものではなかったが、無理すれば買える価格だ。だが、現在よりも輸入車に対する敷居が高く、心理的な抵抗感が大きかった。
だから、同じジウジアーロの、ゴルフやシロッコと同じかそれ以上に魅力的なピアッツァは日本車なのだから、欲しくならないわけがない。相田さんより2歳年下の僕も、ピアッツァは大好きだった。ゴルフやシロッコにも憧れていた。ジウジアーロは、一種のカルチャーヒーローだった。
ピニンファリーナやベルトーネは、たしかに偉大なデイトナやカウンタックをデザインした巨匠には間違いないが、言ってみれば旧世代の人。僕らの世代を代表するデザイナーはジウジアーロなのだ、という気持ちが強い。その点で、僕らよりも年下のスーパーカー・ブーム世代とは、また好みが微妙に異なる。
●ウエッジシェイプの影響力
相田さんは、25歳の時に初めての自分のクルマとしてピアッツァ・ネロXE('83年型)を購入した。それを7年乗り、ピアッツァ・XEハンドリング・バイ・ロータスに買い替えた。
「いすゞのクルマはどれもモデルチェンジの間隔が長いので、ピアッツァもカタチは変えずに、3リッターV6セラミック・ターボを積んだような最上級版が出るのではと勝手に期待していましたが、そんなことはありませんでしたね」
これからも長くピアッツァに乗り続けたいと決意した時に、すでに生産は終了していた。2代目ピアッツァと称して登場したクルマは、似ても似つかぬ代物。少しでも程度の良いものをと探して購入したのが、現在のXEハンドリング・バイ・ロータスだった。相田さんは、運転免許を取ってから、自分のクルマとして2台のピアッツァにしか乗っていない。それほど惚れ込んでいる。
ピアッツァは、きれいなウエッジシェイプをしている。相田さんにとって最初のウエッジシェイプは、アルファロメオ・カラーボとランボルギーニ・マルツァルだった。
「2台のプラモデルを、小学生の頃に作ったことを今でもよく憶えています。何の知識もなかったはずなのですけどね」
実車も見たことがない、コンセプトカーに過ぎない2台のプラモデルを作ったということは、純粋に箱絵に描かれたウエッジシェイプに心打たれたということではないか。
その時、祐次少年の指先と眼を伝わって、クサビ型のクルマという強烈な衝撃がインストールされたと想像できる。それがずっと影響力を発揮し続け、2台のピアッツァとなり、自宅の屋根となった。
自宅の屋根というのは、昨年、自宅を新築した際に、南、東、西向きのそれぞれの屋根を傾斜の緩やかな片屋根にしたことを示している。横から見るとクサビのよう。
「個人の建築士と大手ハウスメーカーとで、設計コンペを行った結果です。設計をまとめていく間で、自分でも気付いていなかったところがよくわかるようになりました」
ウエッジシェイプの影響力は、屋根のカタチにまで及んでしまった。
●2017年までは乗りたい
「右フロントホイールのハブが壊れたのと、燃料ポンプを交換したくらいで、長く乗り続けていても、それほど困ってはいませんよ」
ピアッツァに話を戻すと、13年間でトラブルはあまり発生していないと相田さんは言う。でも、話を聞いていくと、たしかに“困って”はいないだろうが、手間とお金はたくさん掛かっている。
最も大きなものが、2006年に行ったエンジンのボアアップだ。
「さらに10年以上は乗り続けたいと、エンジンをオーバーホールすることに決めました」
ヒストリックカーのレースにも参加している専門工場に持ち込み、その際に、再び組み立てる時に、大きなピストンを組み込む手間は変わらないので、思い切ってボアを0.5ミリ拡げ、排気量を1994ccから2017ccにまで拡大した。改造申請を行い、3ナンバーになった。費用は全部で78万円。 「早くても2017年までは乗りたいので、代えられるパーツはすべて代えました」
パーツ移植用の一台を庭の隅に置き、そこから有効なものを外して組み込んでいる。テールゲートの縁を沿っている配線用蛇腹ホースなども純正部品が入手できず、ウエットスーツ補修材を流用して、亀裂を繕ってある。他にも、さまざまなところに知恵を絞り、手を掛けられているところに相田さんのピアッツァへの愛情の深さと人柄が表れている。
それにしても、なぜ、“2017年”なのだろうか? 「こだわっているわけではないのですが、ボアアップした排気量が2017ccなので。ハハハハハハッ」
3万円でリペイントした真っ赤なヘッドカバーの結晶塗装が美しい。
修理の見積もりや各種請求書、領収書などがファイルされているのはもちろんのこと、オリジナルマフラーをあつらえた時のイラスト図などまでも丁寧に束ねられている。大きさの違うものは、すべてA4の台紙に貼ってサイズを統一してある。
「これから庭も造っていかなければならないので、クルマいじりは休憩中といった感じですね」
建てられたばかりの二世帯住宅の前にピアッツァを停めて、相田さんは庭の完成形をうれしそうにイメージしている。別棟のガレージ(羨ましい!)の建て替えはまだ先だが、もちろんこちらの屋根もウエッジシェイプにするつもりだ。
『NAVI』誌2008年9月号より転載
●いすゞピアッツァとは?
1980年の東京モーターショーで発表され、'81年に発売されたいすゞのスペシャリティカー。初代ジェミニの(今で言うところの)プラットフォームやエンジンを利用し、ジョルジェット・ジウジアーロがデザインした美しい2ドアクーペボディが載る。コンセプトカーの段階では、いすゞではなくジウジアーロ率いるイタル・デザインのプロポーザル・モデルの「アッソ・ディ・フィオーリ」だった。ジウジアーロといすゞは、フィオーリのカタチをピアッツァの製品化に際してなるべく損なわないように努力を惜しまなかったので、全体のプロポーションも崩れず、細部まで神経が行き届いた内外の造形が実現された。外観が美しいのはもちろんのこと、未来的かつ実用的な内装もピアッツァの評価を高めている。後席は2+2ではなく、完全な4シーターで居住性に優れている。
写真・三東サイ(全て)